江戸の夜は、重たい白い煙に包まれていた。香木の甘い香りの奥に、薬品と腐敗が混じった、言葉にできない悪臭が刺さる。闇の中で「湿った、骨が砕けるような音」が響き、町のどこかで誰かが倒れ、誰かが隠れ、誰かが祈っている——それが当時の“日常”になりつつあった。
若い職人・蓮もまた、その闇の中に立っていた。顔には手拭いを固く巻き、息を殺す。最初は、ただの腫れ物だと思っていた。昨夜少し飲み過ぎた、きっとそれだけだ、と。江戸は華やかで、夜は眩しく、吉原は不夜城のように人を吞み込む。欲望は金になり、金は救いに見えた。だが、その夜が底なしの地獄への入口だったとは、本人にも分からない。
やがて、異変は皮膚に現れた。赤い斑点が全身に広がり、当時「バラ疹」と呼ばれた“美しくも呪わしい紋章”が、蓮の身体を覆っていく。耐えかねて古びた診療所を訪ねると、年老いた医者はじっと患部を見つめ、深くため息をついた。
「……これは“とがさ”だ」
それは梅毒——江戸では「カサ」と呼ばれ、誰もが恐れ、誰もが明日は我が身と覚悟した病だった。
治療は残酷だった。差し出されたのは、鈍く光る銀色の塊——水銀。膏薬として塗りたくるか、加熱した煙を吸い込む。猛毒を体内に取り込む“荒療治”である。口の中は腫れ、歯が抜け落ち、よだれが止まらず、全身を刺す痛みに夜が砕ける。
それでも人々はすがった。「鼻を失うより、毒を飲む方がまだましだ」と信じたからだ。
同じ頃、吉原の片隅では、別の地獄が静かに進んでいた。花——まだ十七歳の遊女。股にできものができ、痛みで歩くのも辛いと訴えても、返ってくるのは冷たい言葉だけだ。「白粉で隠せ。客を断る気か」。病の発覚は、彼女たちにとって即、死を意味した。客を取れなくなれば隔離部屋へ放り込まれ、生きたまま捨てられる。華やかな文化の底で、命は“消耗品”として扱われていた。
そして江戸という都市は、その仕組み自体が病を増幅させた。参勤交代で地方から集まる膨大な武士たち。長期の単身赴任という孤独を埋めるため夜の街へ繰り出し、そこで病を受け取る。任期が終われば故郷へ持ち帰る。江戸は、病原体の巨大な貯蔵庫になっていった。病の恐ろしさは感染力だけではない。症状が一度消える「潜伏」があり、治ったと錯覚したその間に、体内の“沈黙の虎”が次の獲物のために牙を研ぐ。蓮も罠に落ちた。赤い斑点が消え、涙を流して喜んだ数か月後、より凄惨な形で戻ってくる。
今度は皮膚だけではない。鼻の付け根に、消えることのない鈍痛。骨が内側から腐り落ちるような毎朝。水銀の煙を吸い込み続けても、痛みは消えない。歯が抜け、口の中は血まみれになり、夜な夜な脳を削られるような頭痛に襲われる。幻覚が見える。死んだはずの赤ん坊が黒い顔で笑い、花が花のない顔で手招きする。人々は彼らを「気違い」「狐憑き」と恐れ遠ざけた。
しかし正体は、救われなかった病の終末——神経を侵された患者たちだった。
江戸の町を歩けば、「鼻を失った者が平然と道を歩く」光景さえ当たり前になっていた。彼らは“鼻付け屋”で偽物の鼻を買い、糊で貼り付けて社会の視線から逃げようとした。だが風が吹けば吹き飛び、笑えばずれる。視線は針のように刺さり、肉体の死より先に“社会的な死”が訪れる。誇りも職も家族も、鼻が落ちた瞬間に崩れていく。
やがて蓮は、隅田川の土手に座り込んだ。夕日に照らされる江戸の街は、芝居小屋の音も笑い声も賑やかで、ひどく美しい。だが彼の目には、そのすべてが死の香りをまとった幻に見える。そこへ一人の老人が腰を下ろす。蓮の顔を見ても驚かず、ただ静かに言った。
「あんたも、虎に噛まれたのかい」
蓮は答えられない。老人の顔には、鼻だけでなく片目も頬の肉もなかった。それでも、残った瞳は驚くほど澄んでいた。
「絶望することはない。この江戸で“花を持ってる者”の方が、もう少数派かもしれんからな」
老人は低く笑い、その声は風に消えた。
蓮はその後、誰にも看取られず静かに息を引き取る。苦しみから解放されたような、奇妙な安らぎだけを顔に残して。
投げ込み寺の片隅には、名もなき墓がまた一つ増える。そこには十七で消えた花の遺骨も、数百の遊女たちと共に埋められている。彼女たちが夢見た“吉原の外の世界”は、ついに訪れなかった。
時代は変わる。科学は病をねじ伏せる薬を生み、人は「これで終わった」と信じた。だが——欲望の装置が形を変えるだけで、人の孤独と油断は消えない。江戸の白い煙は、遠い昔の話で終わるのか。それとも、姿を変えて今もどこかに漂っているのか。
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