昔々、江戸時代。静かな三村・桜井村に、今も語り継がれる不思議な話があります。
村の人々は、代々学者を輩出してきた藤原家の一人息子――藤原清を、容赦なく「バカ清杉」と呼んでいました。二十を過ぎても字が読めず、鼻水を垂らしながら庭で鳥を追い、蟻の行列をいつまでも眺めて一日を終える男だったからです。市へ出れば子どもは石を投げ、大人は舌打ちをして首を振る。ところが不思議なことに、清の瞳だけはどこか澄み、笑っていても奥に別の光が宿っているように見えました。
同じ村に春野という娘がいました。二十一歳、村一番の美人で手先が器用。塗り物の腕が評判で、近隣の武家屋敷からも欲しがられるほどでした。しかし父は早く亡くなり、母と二人暮らし。ある日、その母が重い病に倒れ、医者は言いました。「薬代は二百両。今すぐ飲まねば一か月も持たぬ」
泣き暮らす春野の家に、村の富豪・佐藤神門が訪ねてきます。白い着物を着て、にやりと笑い、金袋を差し出しました。母が震える声で尋ねます。「これは、何のお金でございますか」
佐藤神門の目が怪しく光り、こう言いました。
「お嬢さんを、藤原家の嫁に迎えたいのです」
春野は息を呑みました。藤原家とは、あの“バカ清杉”の家。佐藤は言葉を重ねます。藤原家は落ちぶれたとはいえ立派な家柄で、土地も屋敷も広い。嫁になれば奥座敷で楽に暮らせる。清は確かに足りぬが、心は優しい――と。
母は咳き込みながら拒みました。「私は死ぬ運命。薬など不要。娘をあんなところへやるわけにはいかぬ」
しかし春野は母の手を固く握り、小さな声で言ったのです。
「お母さん、私は大丈夫。お母さんが生きてくださるなら、どこへでも行きます」
こうして春野は藤原家へ向かいます。
藤原家の門をくぐると、座敷は広く、崩れかけた箇所はあっても家の威厳は残っていました。白髪の藤原老学者が現れ、深々と頭を下げます。「清には足りぬところがあるが、世話をしてくれれば救われる」
やがて裏庭から、土だらけの服で鼻水を乾かした清がよろよろと出てきました。清は春野を見るなり、子どものように笑いました。
「誰? きれいだ」
噂以上にひどい――そう思いながらも春野は微笑み、「お姉さんです。これから、よく遊びに来てもいいですか」と言いました。清はただ嬉しそうに頷きます。
三日後、薬が届き、母は少しずつ元気を取り戻しました。
一か月後、結婚式。村人はひそひそ言います。「金のためだ」「薬代が急だから売られた」「一生あんな暮らしはかわいそうだ」
式の最中も清はニコニコするだけで、お辞儀のときもよろけ、春野が支えねばなりませんでした。客は舌打ちをし、母は涙を拭いました。
そして初夜。部屋に二人きりになったとき、春野は静かに言いました。「今日から夫婦です。私がよくお世話します」
清は首をかしげ、「夫婦って何」と笑います。春野は「一生一緒に暮らすこと」と答え、灯を消そうと立ち上がりました。
その瞬間――清が春野の手首を掴みました。
振り返ると、清の目はさっきまでのぼんやりした目ではありません。鋭く、深く、悲しみを宿した目でした。清は部屋と窓を確かめ、春野の前に膝をついて言います。
「奥方。私の話をよく聞いてください。私は馬鹿ではありません」
清は引き出しから古い本を取り出し、びっしりと書かれた文字を見せました。昼は馬鹿のふりをし、夜に学んでいたこと。十歳のころ、家が「逆の家」とされ、幕府の目を避けるため父に命じられ、十二年も馬鹿を演じて生き延びてきたこと。もし賢いと知られれば、家族が皆殺しになるかもしれないこと。
春野は震えながらも、頷きました。
「私は、あなたの秘密を守ります」
こうして春野の“本当の生活”が始まったのです。昼は誰にも気づかれぬように馬鹿の夫を支え、夜は夫の本当の顔を受け止める生活が。
やがて村に「特別の科挙(家去)が開かれる」という噂が広がります。清の心は揺れました。学問を積んでも世に出せぬまま終わるのか、それとも命を懸けて試すのか。父もまた悩み、ついに清の受験を許します。監視役として佐藤神門の息子・佐藤直が同行し、二人は江戸へ向かいました。
――ここから先、清の“十二年の嘘”が、最大の試練へと変わっていきます。
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=bsDOgUg2pI8&pp=0gcJCU0KAYcqIYzv,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]