「江戸時代の庶民は、実は現代人以上に風呂好きだった」――この事実を初めて知ったとき、私は思わず耳を疑った。自宅に風呂がほとんど存在しなかった時代に、人々はどうやって清潔を保っていたのか。その答えは、町の至るところにあった“湯屋”という存在にあった。
江戸は人口およそ百万人を抱える巨大都市で、そのうち七割近くの庶民が長屋と呼ばれる集合住宅で暮らしていた。六畳一間に四人家族がひしめく生活。水道も風呂もトイレもなく、共同井戸と共同便所に頼る日常だった。木造家屋が密集する町で、少しの火の不始末が大火に繋がるため、自宅で風呂を焚くことは原則として禁じられていた。水を汲む労力、燃料の高さ、そして何より火災の恐れ――この三つが、江戸の家々から“内風呂”を消した理由だった。
その代わりに発達したのが、町の銭湯、すなわち湯屋である。徳川家康が江戸に入ってほどなくして誕生したとされ、やがて江戸市中には約六百軒もの湯屋が並んだ。町内に一、二軒は必ずあるという密度は、現代で言えばコンビニ並みである。料金は大人八文、子ども四文。現在の価値に換算すれば大人で約140円ほど。
しかも一か月150文、現代で約4500円を払えば、何度でも通える“がき”という定期券まで存在していた。まさに江戸版のサブスクリプションである。
この安さが、江戸っこの生活を変えた。朝風呂、昼風呂、夜風呂――一日に何度も湯屋に通う者が珍しくなかった。舗装されていない道を歩けば足は泥まみれになり、下水も整っていない街で暮らす以上、毎日風呂に入ることは衛生上の“義務”でもあった。日本人の清潔好きは、すでにこの時代に完成していたのである。
だが、湯屋は単なる入浴施設ではなかった。とりわけ男性にとって、そこは身分を超えた社交場だった。多くの銭湯には二階があり、八文を追加で払えば利用できる男性専用の休憩所が設けられていた。元は武士が刀を置くための空間だったとされるこの場所で、町人と武士が肩を並べ、将棋を指し、人生相談をする。裸の付き合いが、身分の壁を溶かしていったのである。
さらに江戸の湯屋には、季節ごとの楽しみがあった。正月の初湯、端午の節句の菖蒲湯、冬至の柚子湯――いわゆる替わり湯だ。こうした特別な日には、常連が祝儀として十二文ほどを番台に置くのが粋な作法とされた。
現代で言えば、年始にお年玉を渡す感覚に近い。浮世絵にも、番台に積まれた祝儀の山が描かれている。
時代が進むにつれ、湯屋はより複雑な変化を遂げる。初期の銭湯は蒸し風呂が主流で、そこには“湯女”と呼ばれる女性がいて、客の体を洗ったり垢を落としたりしていた。しかしこの仕組みは次第に風俗的要素を帯び、一般女性が湯屋を避けるようになる。幕府はこれを問題視し、厳しい取り締まりを開始。吉原遊郭から湯女を派遣して荒稼ぎしていた業者が処罰される事件も起きた。
湯女が姿を消すと、今度は女性の利用者が一気に増えた。しかし湯屋の数は急には増やせない。その結果、取られた苦肉の策が“混浴”である。地方では当たり前だった混浴は、江戸でも日常の風景となった。1791年、松平定信が、そして1841年には水野忠邦が混浴禁止令を出すが、どちらも徹底されなかった。幕末まで混浴は事実上続き、下田を訪れたペリー提督がその光景に仰天した記録さえ残っている。
禁止令の副作用も興味深い。男女別が進むと、今度は二階から女湯を覗こうとする者が現れ、経営者は構造を変えたり見回りを強化したりと、いたちごっこが始まった。
混浴が普通だった時代には起こらなかった問題が、“禁止”によって生まれたのである。
こうして見ると、江戸の湯屋は単なる入浴施設ではなく、都市生活を支える巨大なコミュニティだったことが分かる。清潔を守り、情報を交換し、人と人とをつなぐ場所。しかも料金は一回わずか240円程度で、定期券なら通い放題――現代の私たちの銭湯やサウナ文化の原点は、すでにこの時代に完成していたのだ。
あなたが次に銭湯の暖簾をくぐるとき、その奥に広がるのは、江戸っこたちが育んだ二百年以上の歴史かもしれない。もしこの話を面白いと感じたなら、ぜひ「あなたが一番好きな銭湯の思い出」をコメントで教えてほしい。江戸と現代をつなぐ“湯の縁”を、ここで一緒に語り合ってみませんか。
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=5alQy5QGmXE,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]